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    6/15/2006

    出师表及其赏析

    前出师表

    诸葛亮

    臣亮言:先帝创业未半,而中道崩殂;今天下三分,益州疲敝,此诚危急存亡之秋也。然侍卫之臣,不懈于内;忠志之士,忘身于外者:盖追先帝之殊遇,欲报之于陛下也。诚宜开张圣听,以光先帝遗德,恢弘志士之气;不宜妄自菲薄,引喻失义,以塞忠谏之路也。宫中府中,俱为一体;陟罚臧否,不宜异同:若有作奸犯科,及为忠善者,宜付有司,论其刑赏,以昭陛下平明之治;不宜偏私,使内外异法也。侍中、侍郎郭攸之、费依、董允等,此皆良实,志虑忠纯,是以先帝简拔以遗陛下:愚以为宫中之事,事无大小,悉以咨之,然后施行,必得裨补阙漏,有所广益。将军向宠,性行淑均,晓畅军事,试用之于昔日,先帝称之曰“能”,是以众议举宠为督:愚以为营中之事,事无大小,悉以咨之,必能使行阵和穆,优劣得所也。亲贤臣,远小人,此先汉所以兴隆也;亲小人,远贤臣,此后汉所以倾颓也。先帝在时,每与臣论此事,未尝不叹息痛恨于桓、灵也!侍中、尚书、长史、参军,此悉贞亮死节之臣也,愿陛下亲之、信之,则汉室之隆,可计日而待也。

    臣本布衣,躬耕南阳,苟全性命于乱世,不求闻达于诸侯。先帝不以臣卑鄙,猥自枉屈,三顾臣于草庐之中,谘臣以当世之事,由是感激,遂许先帝以驱驰。后值倾覆,受任于败军之际,奉命于危难之间:尔来二十有一年矣。先帝知臣谨慎,故临崩寄臣以大事也。受命以来,夙夜忧虑,恐付托不效,以伤先帝之明;故五月渡泸,深入不毛。今南方已定,甲兵已足,当奖帅三军,北定中原,庶竭驽钝,攘除奸凶,兴复汉室,还于旧都:此臣所以报先帝而忠陛下之职分也。至于斟酌损益,进尽忠言,则攸之、依、允等之任也。愿陛下托臣以讨贼兴复之效,不效则治臣之罪,以告先帝之灵;若无兴复之言,则责攸之、依、允等之咎,以彰其慢。陛下亦宜自谋,以谘诹善道,察纳雅言,深追先帝遗诏。臣不胜受恩感激!今当远离,临表涕泣,不知所云。


    后出师表

    诸葛亮

    先帝虑汉、贼不两立,王业不偏安,故托臣以讨贼也。以先帝之明,量臣之才,故知臣伐贼,才弱敌强也。然不伐贼,王业亦亡。惟坐而待亡,孰与伐之?是故托臣而弗疑也。臣受命之日,寝不安席,食不甘味;思惟北征,宜先入南:故五月渡泸,深入不毛,并日而食。——臣非不自惜也:顾王业不可偏安于蜀都,故冒危难以奉先帝之遗意。而议者谓为非计。今贼适疲于西,又务于东,兵法“乘劳”:此进趋之时也。谨陈其事如左:

    高帝明并日月,谋臣渊深,然涉险被创,危然后安;今陛下未及高帝,谋臣不如良、平,而欲以长策取胜,坐定天下:此臣之未解一也。刘繇、王朗,各据州郡,论安言计,动引圣人,群疑满腹,众难塞胸;今岁不战,明年不征,使孙策坐大,遂并江东:此臣之未解二也。曹操智计,殊绝于人,其用兵也,仿怫孙、吴,然困于南阳,险于乌巢,危于祁连,逼于黎阳,几败北山,殆死潼关,然后伪定一时耳;况臣才弱,而欲以不危而定之:此臣之未解三也。曹操五攻昌霸不下,四越巢湖不成,任用李服而李服图之,委任夏侯而夏侯败亡,先帝每称操为能,犹有此失;况臣弩下,何能必胜:此臣之未解四也。自臣到汉中,中间期年耳,然丧赵云、阳群、马玉、阎芝、丁立、白寿、刘合、邓铜等,及驱长屯将七十余人,突将无前,丛叟、青羌,散骑武骑一千余人,此皆数十年之内,所纠合四方之精锐,非一州之所有;若复数年,则损三分之二也。——当何以图敌:此臣之未解五也。今民穷兵疲,而事不可息;事不可息,则住与行,劳费正等;而不及今图之,欲以一州之地,与贼持久:此臣之未解六也。

    夫难平者,事也。昔先帝败军于楚,当此时,曹操拊手,谓天下已定。——然后先帝东连吴、越,西取巴、蜀,举兵北征,夏侯授首:此操之失计,而汉事将成也。——然后吴更违盟,关羽毁败,秭归蹉跌,曹丕称帝:凡事如是,难可逆见。臣鞠躬尽瘁,死而后已;至于成败利钝,非臣之明所能逆睹也。

    出师表
    赏析

    《出师表》是出兵打仗前,主帅给君主上的奏章。这种表,或表明报国之心,或呈献攻城掠地之策。历来以战名世者甚众,以表传后者颇少。惟独诸葛亮的《出师表》不仅存之典册,而且粲然于文苑。

    诸葛亮上《出师表》是在蜀汉后主建兴五年(227),率兵北伐之时。这时蜀偏居一隅,国力疲敝,又“北畏曹公之强,东惮孙权之逼”,诸葛亮为了实现刘备振兴汉室、一统天下的遗愿,“五月渡泸,深入不毛”,平定了南方,有了较巩固的后方,并抓住了曹魏兵败祁山、孙吴兵挫石亭的时机,挥师北伐,拟夺取魏的凉州(今甘肃部分地区),向后主刘禅上了两道表文,“前表开守昏庸,后表审量形势”,即出名的《前出师表》《后出师表》。这里谈的是《前出师表》。

    诸葛亮自刘备于公元207年“三顾茅庐”后,即忠心耿耿地辅佐刘备,以完成统一大业。经过长期奋战,使寄寓荆州的刘备,一跃而为与魏、吴对峙的蜀汉之主,雄踞一方,到公元221年刘备即帝位。公元222年吴蜀彝陵之战后,刘备败逃白帝城,次年病死。刘备“白帝托孤”时对诸葛亮说:“君才十倍曹丕,必能安国,终定大业。若嗣子可辅,辅之;如其不才,君可自取。”对诸葛亮无比信赖。诸葛亮回答说:“臣敢竭股肱之力,效忠贞之节,继之以死。”刘备吩咐刘禅说:“汝与丞相从事,事之如父。”刘禅继位,即后主。刘禅黯弱昏庸,亲信宦者,远避贤能,胸无大志,苟且偷安,是个“扶不起的阿斗”。诸葛亮主张出兵击魏,侃侃陈词,力排众疑,申明大义以拯其愚,吐露忠爱以药其顽,既有政治家的眼光,又有军事家的头脑,且严守人臣下属的身份。

    《出师表》前半部分是临行时的进谏,后半部分乃表明此行夺胜的决心。刘禅虽为蜀主,而蜀之安危成败,实系于诸葛亮之身,因而率众出征时,当促使后主保持清醒的头脑,具备正确的观点,采取得力的措施,才能保证前方顺利进军;同时表明自己忠贞死节之心,既是自勉自励,也是预防小人惑主。

    诸葛亮向后主提出三项建议:广开言路,执法公平,亲贤远佞。这三项建议,既是安定后方的措施,也是施政的正理。为了治愚医顽,作者在行文上颇费深思。

    由势入理,起笔峥嵘。表文第一节向后主提出“开张圣听”的建议,可是却从形势叙起,这能起振聋发聩的作用,又能激发继承遗志的感情。表文开笔即言“先帝创业未半而中道崩殂”,深痛刘备壮志未酬身先死,深诫后人继承父业不可废,以追念先帝功业的语句领起,至忠至爱之情统领了全文。继而以“今天下三分”,点明天下大势,逐鹿中原,尚不知鹿死谁手;复直言“益州疲敝”,自身条件很差,地少将寡,民穷地荒;进而大声疾呼:“此诚危急存亡之秋也!”大有危在旦夕之势,如不救亡存国,将会出现国破身亡的惨局,笔势陡峭,峥嵘峻拔。在凸显形势的情况下,垫以“侍卫之臣不懈于内,忠志之士忘身于外”,他们不忘先帝恩德,不改对后主的忠心,转危为安,化险为夷还是有依傍的,有力量的,有希望的。在这样的基础上,提出“开张圣听”,“以光先帝遗德,恢弘志士之气”的建议,规劝不可“妄自菲薄,引喻失义,以塞忠谏之路”。表文将是否广开言路,从关系国家存亡的角度来谈,从关系忠于先帝的高度来说,使人闻之惊心,思之动心。如果表文只是一般地申述广开言路的意义,平平道来,那对一个昏聩愚钝的君主来说,显然是不会有多大触动的。

    由主而次,肌理缜密。以情动人,更要以理服人。说理应主次分明,先后有序。表文主要是向后主进言的,因而首揭“开张圣听”,以打开进言之路。在打通了忠谏之路的前提下,再言执法公平、亲贤远佞两项。谈执讼公平,又先总提“宫中府中,俱为一体,陟罚臧否,不宜异同”,继而就宫中、府中两方面分述之。分述时,又切紧“开张圣听”的精神,宫中之事,向郭攸之、费、董允这些志虑忠纯之士请教,而且要“事无大小,悉以咨之”,则“必能裨补缺漏,有所广益”。对于府中之事,向“性行淑均,晓畅军事”的向宠请教,“营中之事,悉以咨之”,也“必能使行阵和睦,优劣得所”。最后提出“亲贤臣,远小人”的问题。三项建议,既可独立成项,又相互关联。广开言路,是开的忠谏之路,而非为谗邪开方便之门。亲贤臣远小人,才能广纳郭攸之、向宠等人的良言,才能“昭平民之理”,不让奸邪得势,造成内外异法,赏罚不明。君主昏庸,主要就在于贪于私欲,蔽于视听,昧于事理,因而忠奸不分,贤愚不辨,是非不清,赏罚不当。诸葛亮针对后主宠信宦官黄皓,无视创业勋臣的毛病,对症施药,又说得委婉深曲,入情合理。所列三项,广开言路是前提,执法公平是关键,亲贤远佞是核心。严密的说理,再愚的人也会得到启发。

    由近及远,思路开阔。表文为了说明亲贤远佞的利弊,以先汉的“兴隆”和“倾颓”的历史事实,作为前车之鉴,并以先帝叹息痛恨桓帝、灵帝昏庸误国为告诫,促使后主亲信贤臣,并以“汉室兴隆,可计日而待”为鼓励,由近及远,借古鉴今,成败并举,显得衢路交通,经纬成文。

    诸葛亮因为后主是个“妄自菲薄,引喻失义”的昏庸之徒,理要说得明,语又不可用得重,既要循循善诱地开导,又要不失臣下尊上的分寸。因而以“形势”使对方震动,明示已临“危急存亡之秋”,如不励精图治,势必国破身亡;以“情感”打动对方,连呼先帝,声声热泪,其业系先帝首创之业,其臣为先帝简拔之臣,其将为先帝称能之将,怎不光先帝之遗德,竟先帝之遗业;以“措施”教之,告知治国理政的具体办法,切实可行,行必有效;以“事业”励之,告诫后主要完成“先帝创业未半”的业,使天下归一,汉室兴隆,促使他有远大的抱负,完成千秋大业。表文从各个方面规箴后主,情真理足,词婉心切,因而虽属奏章表文,却感人至深。

    表文的第二部分,由叙自己生平而至言伐魏的意义,进而表明自己“兴复汉室,还于旧都”的决心,也写得慷慨深沉,动人心魄。

    由人到己,文势跌宕。表文从第一部分的进谏,到第二部分,忽以“臣本布衣”起笔,另入蹊径,别开生面。叙写自己二十一年来的情况,历数先帝之殊遇,——一是三顾茅庐使之出山效命,一是倾覆之际使之出任丞相,使之由布衣身份一跃而为极位重臣,由躬耕隐士一举而成三军主帅。这一节叙述,好像是逸枝衍蔓,与上下文联系不紧。其实,它与上下文貌分神合,明疏实密。这是因为:第一,追溯二十一年的殊遇,披露感恩戴德之情,说明以上进言纯属忠谏,叫后主听来觉得舒徐入耳。第二,以自身不负先帝殊遇舍命驱驰,作为后主不忘先人之业的榜样,进一步启发后主奋发图强。第三,二十一年不平凡历程,说明创业艰难,激励其不可半途而废,更不能前功尽弃。第四,写出先帝的榜样,不以孔明“卑鄙”,猥自枉屈,三顾茅庐,事不分大小,悉以咨之,于败军之际,危难之间,仍委以重任,可见他任人唯贤,唯才是举,叫后主效法先帝知人善任。第五,表明自己二十一年如一日,竭忠尽智,今后仍一如既往,忠心不改,余力不遗,使后主托之以讨贼兴复之任,且可免因率师北伐,小人进谗而不予信任,坏了大局。诸葛亮的这段叙述,系进一步打动后主的心,乐于接受前面的进言,又是临别时的表白,实有深衷曲意。文章由进言转而为自叙生平,宕开了笔墨,使文势波澜起伏,更为可观。

    由叙而誓,推上高潮。表文继叙二十一年遭际之后,续述白帝托孤后的心情、工作,进而表明北定中原的决心。前面的论世、进言、抒情,到此结穴,出师表文的特点由此完全挑明。追言托孤之事,交代这次出师的历史根源,“受命以来,夙夜忧叹,恐托付不效,以伤先帝之明”,说明这次出师的思想基础。“五月渡泸,深入不毛。今南方已定”,指出这次出师的物质准备。在充分叙说条件的基础上,提出“当奖率三军,北定中原,庶竭驽钝,攘除奸凶,兴复汉室,还于旧都”,警拔爽截,铿铿振响,熠熠生光。《出师表》至此才径言出师,切入本题。前面的进言,是为了保证有出师的条件,中间叙事,是说明自身具有出师条件,至此两线归一,提出宜乎出师,也就如瓜熟蒂落,孕足而娩。

    归纳前意,总绾全篇。表文结束之前,将出师与谏言两层意思拢合一起。一方面提出“愿陛下托臣以讨贼兴复之效,不效,则治臣之罪”,另一方面还提出“陛下亦宜自谋,以咨诹善道,察纳雅言”,诸葛亮主动领受任务,并表示如失职,甘愿受罚,以显示“平明之理”。最后还不放心,谆谆告诫,要后主“深追先帝遗诏”。先帝临终时训示后主:“勿以恶小而为之,勿以善小而不为。惟贤惟德,能服于人。”最后又回复到“开张圣听”的问题上来,可见修明内政与北伐胜败的关系。这也就将前面两部分内容,沟通了内在联系。

    表文以“今当远离,临表涕零,不知所言”作结,其声呜咽似泣,其情沛然如注,勤勤恳恳之态如现,耿耿忠心尽袒。

    “出师未捷身先死”,可惜诸葛亮此行未能如愿却先逝世,后人对此颇多惋叹。杜甫曾写道:“三顾频烦天下计,两朝开济老臣心。出师未捷身先死,长使英雄泪满襟。”(《蜀相》)宋代文天祥身陷囹圄,还高唱“或为《出师表》,鬼神泣壮烈。”(《正气歌》)陆游更是多次提到《出师表》:“《出师》一表通古今,夜半挑灯更细看。”(《病起书怀》)“《出师》一表千载无”(《游诸葛武侯台》),“一表何人继出师”(《七十二岁吟》),“凛然《出师表》,一字不可删。”(《感状》),“《出师》一表真名世,千载谁堪伯仲间。”(《书愤》)总之,这道《出师表》,因其深情厚意寄翰墨,忠肝义胆照简编,一直为人所乐道。

    《出师表》能写到如此地步,决不是偶然的。文章皆有所为而发。时当北伐在即,作为主帅的诸葛亮要向君主上一道表文,他不是作为例行公事,而是从北伐的全局上考虑,只有后主修明政治,才能保证北征顺利,因而先进安后之言,再表夺胜决心。表文又极为注意收表对象的特点,因而决不是一般的上条陈,列述方策,而是熔议论、叙事、抒情于一炉,启愚矫顽。诸葛亮是后主的丞相,又是受“托孤”的对象。他给后主上表文,既不宜用训斥的口吻,又不便用卑下的声气,写得不卑不亢,方为得体。尤其文中连称先帝,最为合宜。全文称先帝凡十三次,显得情词十分恳切。诸葛亮自叙“先帝知臣谨慎,故临崩寄臣以大事也”,确实“诸葛一生惟谨慎”,细玩本文,从虑事到措词,无不体现了“谨慎”精神,这也是此表被之为“至文”的重要原因。

    (选自《历代名篇赏析集成》,中国文联出版公司1988年版)
    6/12/2006

    日本の祝日

    元日(1月1日)
    年の初めを祝う日。「一年の慶はは元旦にあり」と言われます。この日にはそれぞれの家で国旗を掲げ、国民こぞって祝いましょう。
     
    成人の日(1月15日)
    大人になったことを自覚し、みづから生き抜こうとする青年を祝います。
    この日は松の内と言い、この日までを正月の期間とし、小正月としてお祝いをした日と言われる。
    これからの日本の将来を担う青年の成人の日を国民こぞってお祝いし、年長のものはこの青年たちに日本を託すためにも、家庭で国旗を掲げ、日本国民一同が国あげてお祝いする日です。
     
    紀元節「建国記念の日」(2月11日)
    遠い昔、初代神武天皇が日本が初めて大和(奈良県)橿原の畝傍山の麓にて日本を建国され、即位された日がこの日であります。
    この日には我々日本人がこのうるわしい日本の国が遠い昔の今日の日に建国されたことを祝し、また「ひのもとの日いづるくに」としての今後の発展を祈り、それぞれの家庭で国旗を掲げ、お祝いをしましょう。
    それぞれの誕生日を家族でお祝いをして、家族で喜び合うのと同様、それぞれが日本の国に誇りを感じ、日本の国の誕生日を心よりお祝いしましょう。
     
    春分の日(3月21日頃)
    秋分の日(9月23日頃)

    この両日は、一年における2度の昼夜等半の日にあたり、中日と言い、仏教ではこの前後3日を彼岸という。
    日本古来から自然を大切にする心を大切にされ、四季を通して節目を大切にしてきた日本人にとって、この中日はこの日を境に昼と夜の長さが逆転するという自然の法則を一つの節目として考え、意義のある日であります。
    この日は神社詣り、墓参り、寺詣りなど行う慣習があるが、これは祖先崇拝、故人追憶の日としても現在もなお息づいています。
    宮中においてもこの両日には春季皇霊祭、秋季皇霊祭として歴代の天皇・皇后・皇族を祭る日として天皇自らのお祭りが行われています。
    それぞれの神社においても同様のお祭りが行われています。
     
    みどりの日(4月29日)
    自然に親しむと共にその恩恵に感謝する日。
    この日は亡き昭和天皇のお誕生日であり、その昭和天皇を偲ぶと共に、昭和天皇が生前緑をこよなく愛されていたことから、この祝日が設けられています。
    これからの日本の将来を担う青少年の心の教育が叫ばれております。その事から豊かな心を養う意味を持って先輩たる両親や祖父母は若い青少年にこの日の意味を伝え、自然の大切さを伝えるのに重要な日であります。
    それぞれの家庭においても、環境問題が叫ばれている昨今において、自然への感謝の気持ちと、畏敬の念をもって日本国民等しく国旗を掲げましょう。
     
    憲法記念日(5月3日)
    日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する日。
    現憲法が施行された日にちなみ、定められています。この日には日本が法治国家としての重要性を考え、日本の国の発展を祈り、国旗を掲げましょう。
     
    こどもの日(5月5日)
    子どもの人格を重んじ、子どもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日。
    日本の次代を担う子供達の成育は実に重大な事であります。
    今日の児童こそは明日の日本を担う父となり母となることを認識し、国民挙って子供の養育に責任を負い、子供の幸福をはかり、子供を祝福しようとするのが祝日の意義です。
    この日は昔からの風習として残る端午の節句がきている。
     
    海の日(7月20日)
    この日は長い間(昭和16年以降)「海の記念日」と呼ばれてきましたが、平成7年「国民の祝日に関する法律」が改正され、『海の日』になりました。
    これは「海の恩恵に感謝し、海洋国家日本の繁栄を祝う」とされており、「海」は「産み」につながり、四方を海に囲まれた海洋国家日本にとって大切なものであり、日本の繁栄につながるものとされています。
    この日が「海の日」なったのは「明治天皇が明治9年東北巡幸から荒波の中を無事横浜港に到着された日であり、明治天皇を中心に国民結束して世界に雄飛した明治の日本を偲ぶ日」とも詩新聞報道でなされております。
    家族と共にこの日をお祝いし、この低迷した日本国家を憂いて、今後の繁栄を祈りましょう。
     
    敬老の日(9月15日)
    多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日。
    高齢化社会の到来により、昭和41年6月建国記念の日や体育の日と共に成立した新しい祝日です。

    体育の日(10月10日)
    スポーツに親しみ、健康な心身を培う日。
    昭和39年、東京オリンピックの開会式が、10月10日行われたことによりこの日が選ばれ、国民に広くスポーツについての理解と関心がもたらされるような意味からこの祝日が設けられた。

    文化の日(11月3日)
    自由と平和を愛し、文化をすすめる日。
    日本文化の進展を、一年のこの日に反省回顧して、狭い視野にとらわれることのない様、充分に展望の広さをもち、新しい決意をもって、更に進もうとするための大切な節目の意味を持ちます。
    この日は明治天皇の誕生日であり、明治天皇が近代国家の礎をなしたことから、この日を文化の日とした。
    明治節とも言います。

    勤労感謝の日(11月23日)
    勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあう日。
    この日は古来よりの慣習であります、新嘗祭の日がこの日であり、この新嘗祭は収穫感謝のお祭りが全国的に行われていたことによりちなみます。
    これは日本人が稲作と共に進歩発展してきた民族であり、日本が農耕から発展してきた事を考え、商工業に携わる方々の勤労を感謝するためにも祝日として定められたのでしょう。

     

    天長節(12月23日)

    今上陛下のお誕生日です。日本国憲法第一条にもあるように、日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であらせられる「今上陛下」のお誕生日は国民こぞってお祝いする日であります。